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 故佐々木勝利監督とテレビアニメーションの仕事をともにしたのは、日本サンライズ制作の“無敵ロボ・トライダーG7”“最強ロボ・ダイオージャ”の二作品のみだったが、その前後三十余年にわたる交友は続いていた。その中でもひとつ大きな思い出がある。監督と脚本という立場でテレビ出演したことだ。テレビ局は名古屋テレビ、CBCだった。
 同局は“機動戦士ガンダム”(ファースト・ガンダム)など日本サンライズ社の作品を放送してきたキー局で、同社に出演の依頼をしてきたというわけだ。折から“トライダーG7”の放映が後半に入る時期だったと思う。同局で毎朝八時三十分から放送している“奥さまワイドショー”という番組の枠内だった。放送日は夏休み真っ最中の一日。“トライダーG7”の追い宣伝をかける目的で、同枠の中に三十分の特集を組んだのだった。当日のナマ出演である。

 朝早いこともあり佐々木氏と僕は前日の夕方新幹線で名古屋に向かい、局の担当プロデューサーと顔を合わせた上で宿をとった。プロデューサーは「こちらからいろいろ質問することに気楽に答えてくれれば」と言っただけで、打ち合わせらしい打ち合わせも無く、質問の内容についても何もふれなかった。いわゆるぶっつけ本番である。宿では佐々木氏とたあいない話しを肴に酒を酌み交わしたが、僕は内心一抹の不安が無いではなかった。「なるようになるさ、気にすんなって」と佐々木氏に言われ、それもそうだと僕も腹を決めた。佐々木氏のそうゆう太っ腹というか、無頓着なところが逆な性格の僕にとって気楽なのかもしれない。

 翌朝、局を訪れた僕たちは始めて同番組の司会者を紹介された。元中日のエース投手だった坂東英二氏だった。今でこそクイズ番組やバラエティーなどレギュラーを抱え、全国的に知られるタレントだが、当時はまだ名古屋テレビにしか出演しておらず司会者としても知名度は限られていたと思う。もちろんプロ野球の投手としては一世を風靡した人であり、野球ファンなら知らない人はいないはずだ。余談になるが“トライダーG7”の監督をしている佐々木氏の出演はわかるが脚本の立場でなぜ僕が選ばれたのかずっと分からなかった。でも理由は簡単だった。「質問の中で話題は当然ガンダムの話にも広がるだろうから、両方の作品に関わった脚本家をというのが同テレビ局の意向だったのだ。確かに“トライダーG7”と”ガンダム”の二作品に関わっているのは僕しかいなかった。

 “奥さまワイドショー”は通常一時間枠の番組だったが、この日は夏休み中の子供たちを対象に僕たちが出演する三十分を加え、一時間半に枠を広げてのスペシャル番組として組まれていた。僕たちの出番は前半三十分が終わったところ。坂東氏の「ゲスト紹介」に促され、席についた。スタジオには小学生の子供たちを連れた母親、家族連れが大勢席についていた。こうした光景をスタジオの後ろや袖から見た経験は何度もあるがゲストとして真正面から向かい合うのは初めてで、やはり内心緊張したのを覚えている。それでも司会の坂東氏の語りは終始笑顔をたたえ、関西訛りのやわらかい口調にすぐに打ち解けることができた。

 質問の内容も演出する上で、脚本を書く上での苦労話とか、作業の手順など、僕たちが常に向き合っていることなので、具体例をあげたりしながら楽しく対応できた。一つ気を使ったことは小学生の子供たちが沢山いるので、少しでも分かりやすい言葉を探そうと努めたこと。番組は終始坂東氏とのキャッチボールで進められ、子供たちのナマの声を聞けなかったことが残念だったが、それでもキラキラ目をか輝かせて真剣に聞き入る子供たちの姿には感動。“トライダーG7”“ガンダム”への強い関心をじかに受け取れたことは収穫だった。

 無事放送を終了しテレビ局から開放されたのはお昼少し前だった。夏の街路は暑かったが、佐々木氏は大阪に足を延ばして折から甲子園で開催中の高校野球を観戦したいと言ったが、僕は名古屋に移り住んでいる小学校時代からの友人に久しぶりに会いたいと思い、佐々木氏と別行動ということになった。ところがこれが思わぬハプニングに繋がってしまったのだ。夕食まで共にしてくれた友人と別れて駅に向かったのだが、何かの事故の影響で新幹線はとまり復旧に時間がかかるというのだ。仕方なく各駅停車の東海道線に乗ったのはいいが東京までの直通は無い。三島で乗り換え、沼津でのりかえ、熱海に着いた頃はかなり遅い時間になっていた。僕は帰るのを諦めて小田原で降りた。ところが今のようにビジネスホテルなど無い当時小田原に泊まる所は無かったのだ。結局箱根湯本まで行くことになり、かろうじて宿をとることができた。後で知ったのだが、満席のため甲子園に入場できなかった佐々木氏は早い時間に新幹線で東京に帰っていた。