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 佐々木勝利氏がサンライズ社で総監督を務めた二作目“”最強ロボダイオージャ“”にはちょっとした逸話がある。アニメーション作品を制作するために必要な人材といえば、まず大量のセル画を書く優れたアニメーター、次いで声優さんたち。この頃テレビのアニメーション番組が全盛期にあり、売れない若手俳優さんたちを声優という形で迎え入れるプロダクションが増えはじめた。洋画の吹き替えなど作品によっては著名な俳優さんや子役を起用することもあったが、長期間続くテレビシリーズの場合、そうしたプロダクション所属の人たちを声優のプロとして起用する風潮が広がっていった。そんな折り佐々木監督は独断でちょっとした冒険をやったのだ。

 佐々木氏は無類の酒好きで、よく若手のスタッフを連れて飲みにいった。ある時一軒の飲み屋で偶然出会い、意気投合したのが声優の古川登志夫氏だった。今でこそ押しも押されもしない古川氏だが、当時はまだ名前も知られていない存在だった。その古川氏を佐々木監督は“ダイオージャ”の主役エドワード・ミト王子役に即決したのだ。古川氏の声が役柄にフィットしていると思ったのか、将来有望とみて育てようと思ったからかは定かでないが、僕は後にこのことを聞かされ面白いと思ったし、良いことではないかと思った。しかし事態は逆でサンライズ社のひんしゅくを買うことになった。そしてこの二作目を最後に佐々木監督はサンライズ社の仕事を二度としなくなった。

 佐々木氏の仕事歴は長く、東映動画の“ひみつのアッコちゃん”“もうれつア太郎”などの演出助手をはじめ“闘将ダイモス”“トランスフォーマー”シリーズなどの演出、コンテと幅広く活躍してきたし、人脈も広い。それから数年、十数人のアニメーターを抱えてセル画、背景画を中心にした下請け会社有限会社スタジオG7を設立した。シナリオ一筋のうえ画は全くダメな僕にはその頃なんの協力もできなかったが、折りに触れ酒を飲みながらアニメ談義を交わしたり関係は続いていた。ところが数年経ったある日、その会社が倒産したことを突然聞かされた。原因はバブルの到来だった。同社はアメリカのプロダクションの仕事を多く下請けしていたのだが、バブルの到来によりレートが大きく変化し支払いは請求通りドルで受け取ったものの、日本円に換算すると以前の半分程の金額になってしまったのだ。佐々木氏としても手の打ちようが無かったと聞かされた。

 僕が再び思わぬ形で佐々木氏から仕事を頼まれることになったのは数年後のことだった。テレビ作品ではないがシナリオの仕事である。その時彼は代々木アニメーション学院に在籍し、営業を主体に活動していたのだ。ちなみに、当時同学院でCGの講師をしていて、後に企画会社アイロリ・コミュニケーション(イロリ、囲炉裏)を設立、このコラムの連載を企画してくれた森田應学君を僕に紹介してくれたのもこの時の佐々木氏だった。

 仕事は、地方都市のPRフィルムの制作だった。一つは福島県相馬市、もう一本はサッカーJリーグ“ジュビロ磐田”で知られる静岡県磐田市。前者は市役所観光課が制作する実写フィルムで、全国に知られる恒例の行事“相馬野馬追い”を主題にした作品である。その勇壮な行事を分かりやすく、効果的なシーンを駆使して30分の作品にまとめる作業だった。佐々木氏と何度か現地に足を運び、膨大な資料を調べ過去のフィルムを鑑賞しながらシナリオ作成を進めた。予想外だったのはシナリオに対する担当者のチェックだった。プロの監督、プロデューサーと違い書かれているト書きやナレーションのセリフがその通りに映像化されるとの思い込みから、一字一句直しや変更を提示するのだ。これには正直参ったが、後で振り返ってみると以後の僕のシナリオ作業に大きく役立っていたことに気がついた。プロの目とは違う素人の目、つまりテレビや映画を観る人の目に対する新しい見方ができるようになったことだ。

 一方磐田市の方は地元商工会議所青年部が作る30分の(結果40分程になった)アニメーション作品だった。同市の歴史、伝説を題材にしたもので、森田君もCG部分で参加、力量を発揮してくれた。資料集め、ロケハンの時と、シナリオ打ち合わせと直し作業でそれぞれ一泊ずつ二回現地を訪問した。双方とも予想以上に大変な作業だったが、僕の中に新鮮な空気を送り込んでくれたことは確かである。その佐々木氏は三年前の十月ガンのため他界、30年余のさまざまな思いが今も甦ってくる。心からご冥福を祈りたいと思う。