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 “国定忠治”(三国連太郎主演)をはじめ“遠山の金さん”(中村梅之助、橋幸夫各主演シリーズ)“河内山宗俊”など多くの時代劇のシナリオをかいてきた。“あばれ八州御用旅”(ユニオン映画製作、パート1・パート2)もそのひとつである。江戸時代、幕府のある江戸を除いた関東各州は天領だったが、それをいいことに各地で盗賊ややくざ者たちの犯罪が相次いだ。手を焼いた幕府が新たに設立したのが“関東取り締まり出役”(通称関八州取り締まり)という。いわば出張刑事のような役職で、「手に余らば斬り捨て御免」の特権が与えられていた。
 彼らは略称“八州様”と呼ばれ、土地土地の悪党たちに恐れられるほどの強者であったが、中には職権を乱用し、土地の権力者と組んで私服を肥やす者も居たようだ。この番組は“悪”を倒す正義の八州様の活躍を描く、勧善懲悪のエンターテイメント時代劇である。数名の配下と共に各地を巡って悪を懲らしめる主演の八州様は西郷輝彦が熱演した。

 映画全盛の時代から、大映にしろ松竹にしろ時代劇の撮影といえば京都がメッカだった。中でも時代劇大国と言われた東映は京都太秦に広大なオープンセットを常設し、第二東映まで擁して量産してきた。だから時代劇のシナリオを専門に書くライター、監督ともに京都出身京都在住のベテランたちがほとんどだった。しかし、時代の流れとともに映画の生産本数は減少し、時代劇もテレビ映画に移行していった。

 テレビ映画の量産時代に入るにつれ、テレビ局の本社のある東京周辺に製作プロダクションが林立してきた。当然の流れでプロデューサー、シナリオライター、監督ともに東京在住の人材が増していった。時代劇も東京在住のプロダクションで製作するようになっていった。とはいえ、時代劇の撮影となるとやはり京都が主体になるのは今も同じである。一時期、関東近県の土地での撮影を試みたこともいろいろあった。しかし長続きはしなかった。素晴らしい自然のロケ地をやっと見つけたと思ったら、どうしても画面に電柱や電線が写ってしまう。さりとてスタッフ、機材の多いロケ隊を連れ膨大な予算の掛かる遠出はできない。やはり近くにお寺や自然の多い京都には太刀打ちできないというわけだ。そして僕がシナリオライターとして活動しはじめるにつれ、テレビ映画の時代劇自体生産量が少しずつ減少しはじめていった。

 そんな頃この“あばれ八州御用旅”の仕事と出会い、時代劇の仕事として初めての体験をしたのだ。それはシナリオの直しの打ち合わせを京都太秦東映撮影所で行うことになったことだ。それまでは東京のプロデューサーが監督の意見を京都で聞き、何本かまとめて僕たちに伝えてくれる
形だった。しかしこの時はプロデューサーのスケジュールの関係で東京に戻れず、僕が行くことになったのだ。

 生まれて初めて撮影所の門をくぐり、時代劇のオープンセットやヅラ(かつら)をつけて刀を差し、扮装姿で行き交う俳優さんたちの姿に憧れのような浮き浮きした気分になったのもつかの間、厳しい現実に引き戻されてしまった。通された広い部屋には知らない顔が十数人、こちらを見ている。後で知らされたのだが、それぞれの番組のシナリオライターや監督さんだった。しかも、東京から打ち合わせにきたのは僕一人だったのだ。

 シナリオライターとしてまだキャリアも浅く、京都の人達の中では知名度も無い若造の僕は考えすぎかもしれないが、完全に萎縮していた。その時、以前大先輩のベテランライターが話していた有る事が僕の頭をよぎったからかもしれない。時代劇専門に書いてきたライターや監督は製作本数の減少とともに、当然仕事もへっている。だから刑事もの、アクションものと仕事幅もある東京のライターが時代劇を書くとはけしからん、というプライドから敵視している向きがあるという話だった。それが事実かどうかは別として、今迄も色々な打ち合わせでかなり厳しい意見も言われてきた僕だが、正直、この時の僕は相手の話もはっきり飲み込めぬほど、頭の中が真っ白になっていた事は事実である。そのせいか、このシリーズの一本目の直しについて、(日帰りで自宅の作業)約束の期限より遅れてプロデューサーに迷惑を掛けてしまった。後で思い返し貴重な体験になったことも事実である。シナリオライターとは、こう言う体験を積み重ね、いい意味でも悪い意味でも図々しくなることが必要なのかもしれない。