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 “機動戦士ガンダム”。SFの世界を借りた戦争アクションであり、エンターテイメントな要素もふんだんに盛り込んだとてつもない番組だった。しかし、一言で言うなら主人公アムロの成長物語である。チーフライターの故星山博之氏も「アムロに父を越えさせるドラマを書きたかった」と言っていた。だから僕は担当する第一作目の第三話から、常にそのことを意識しながらシナリオを書き進めてきた。そして僕が担当する最後の回第40話のプロットを手にした時、改めてそれまでのことを振り返ってみた。意志に関わらず戦争という過激な現実に巻き込まれ、熾烈な戦いを余儀なく強いられ、多くの人達と僕はい傷つき別れていったアムロ。その彼が今どんな思いで、どう成長しているのかと。正直その時、僕には明解な答えがすぐには出てこなかったように思う。
 その答えとも取れる言葉が第40話のプロットの中にあった。“ニュータイプ・アムロ”である。しばらく作業から離れていた僕には初めて聞く言葉だった。ニュータイプという存在は不思議な少女ララアとして第34話から登場していた。テキサスのフラナガン機関でサイコミュのテストをほぼ完了した少女であり、アムロの脳裏に彼女の思惟がハッキリ飛び込んできたことにより、二人はお互いの存在に気付くことになる(第37話)。“思惟”とは、辞書にとると(宗教・哲学などの根本問題について)深く考えることとある。さらに第38話ではガンダムのアムロとエルメスのララアがお互いに感応しあっている自己をしり、その言い知れぬ意識の高揚に緊張感を覚えるのだ。“感応”とは互いに触れ合っていない物事の間に特殊な作用が働いて反応し合うこと。つまり二人には超能力ともいえる力が発揮されるのか。それがアムロの成長の現れ? とは思いたくなかった。

 どちらの回も当時まだフィルムとして完成していないから、映像でどう表現されるのか僕には想像もできなかった。さらにもう一人シャリア・ブル大尉というニュータイプも登場(第39話)する。第40話のプロットでは初めて実戦に挑むララアとシャアとアムロの空中三つ巴を描かなければならなかった。ニュータイプについて僕はCDの富野氏にいろいろ聞いてみたが、その時点で氏の中でも明確な定義は固まっていなかった。途中打ち切りを予定外として、企画当初の全話数で追求する計画だったと言う。しかしシナリオを書かなければならない。僕は当時なりの判断と解釈で作業に踏み切った。

 人は時として自分でも気付かぬ力を発揮したり、他人の心の中を感じ取れたりする。それらは魔力でも超能力でもない。多くの人と出会い、人生経験を有意義に積み重ねていくことで知らずとみについていく能力である。ニュータイプとはその結果の現象であり、それがアムロの成長なのだと、自分なりに理解することにした。だから、今迄と全く違うガンダムの動きの速さを存分に表現した上で、「改良したガンダムの動きが速くなった分メカに負担がかかる。その辺のバランスの取り方が難しい」と普通の人間と変わらぬようにアムロに言わせた。また、「その辺は自信持って、ニュータイプだから」とミライに言われ、「タイプから言ったら古い人間らしいけど」、アムロはさりげなく答える。実際、後に見た完成フィルムでは、ニュータイプについて抽象的な映像で表現されたものばかりだった。余談になるが、「ニュータイプについてはやはり不消化でした。でもそのまま若い人達に伝えた方が自由に考えて貰えるし、その方が僕がニュータイプに託して言いたかったこと“単に人間対メカの戦いではなく、ヒトの問題なんだ”が、浸透しやすいのではないかと思った。ニュータイプ話は付けたしだったのではと、よく皆さんに指摘されたけど」(アニメージュ・スペシャル、ロマンアルバム35)と富野氏は振り返っている。

 いずれにしても“ニュータイプ”についてはさまざまな議論画有り、正直今でも明確には定義付けることができないでいる。ただ最近このコラムで振り返りながら、一つの考え方を見つけ出した。もしかしたら戦争を知らない戦後生まれの二世、三世の若者達を意味するのではないかと。彼らはルール、マナーをはじめ価値観、ライフスタイルともに今迄とは違っている。音楽、絵画、創作などの文化においてもそれまでの創造、表現の仕方と遥かに異なってきている。富野氏も言っていた。人間とメカの戦いでなく、ヒトの問題なんだと。だから、超能力ではなく、“時代を超えたヒト”と言うことではないかと、今の僕は思う。富野氏はさらに、開高健の言葉“傑作とはつつましいもの”を引用し、「物議をかもしだしたり、議論を呼ぶようなものは傑作じゃないのよ、しょせんは」(同誌)とも言っている。