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 僕が担当した“ガンダム”のシナリオはいよいよ最後の一本、第40話“エルメスのララア”だけとなった。これの前の回の“ジャブローに散る”から10本余り間が空いたのは、“科学冒険隊タンサー・5“の作業が佳境に入ったためチーフライターとしてそちらの作業に時間を取られたことにある。このため僕はその間のシナリオを理解できるまで読み返したのだが、あまりの展開の早さに驚かされた。目まぐるしく変化する戦場、戦況に加え新兵器、新戦法が次つぎ登場する。そして最も驚いたのは“ニュタイプ”という言葉、いや存在だった。

 シナリオを読んだだけでは理解しがたかった僕は、CDの富野氏に説明を求めた。理由はただ一つ、番組の視聴率が悪いことから途中打ち切りが決まったからという。実はある時期からその噂が流れはじめたことはなんとなく耳に入っていたが、まさか実際のことになるとは誰も思っていなかった、というより“思いたくなかった”方が正しいだろう。それが現実のこととなったのだ。このことが以降の作業に大きく影響したことになる。企画が決定した段階で製作予定話数は確か51話までだったと思う。それが43話で打ち切りとなると8話ほど本数が減る。つまり配分していた話の内容を操作しなければならない。全てを取り去る訳にはいかないから、可能な形で詰めて各話に振り分けるしかないのだ。当然のこととして展開は目まぐるしくなり、内容も無理した詰め込みになる。僕が抜けていた間を担当したライターに聞いてみると、その作業は予想以上に大変だったという。無理も無い。

 僕も40話の執筆には苦労したし、時間もかなり掛かった。富野氏との意見も微妙に食い違い直しも3〜4回だったか、今迄で一番てこずった。それが“ニュータイプ”という存在だった。サイコミュでエルメスを操縦するララアだけでなくアムロも実はニュータイプだったという全く新しい設定がプロットにはあった。ララアはアムロとの戦闘における強烈な脳波の影響で、押さえつけられるような頭痛に襲われると書かれていたが、僕には医学的にも生理的にも実感として伝わってこなかった。だから二人の戦いをシナリオでいかに表現していいのかも分からなかった。新兵器とか新作戦というなら映像での表現も工夫できる。しかし、内面の心理的なものとなると正直どう表現していいのか分からなかった。

 数回の話し合いの末、僕の中では“超能力者“として受け止めるしかないと伝え、何とか映像で表現するしかなかった。富野氏はいわゆる超能力者とは解釈が違うと答えたが、実はその時点で富野氏の中でも明確な答えが見つかっていなかったことが、後で分かった。打ち切られないことを前提に、残りの話数の中で追求していく積もりだったと富野氏は後に語っている。なにはともあれ完成、放映された映像を見たが、やはり超能力者なのかとしか僕には思えなかったし、実のところ今にしても僕には“ニュータイプ”がどのような存在なのか恥ずかしながら理解できないでいる。その後、スプーン曲げのユリゲラーとかミスターマリック(ハンドパワーと称している)とか超能力を売りものにする存在がいろいろ出ているが、それらとは全く異なるものであることは確かだと言い添えておく。

 僕が担当した“ガンダム”の話数のラストまで振り返ってきて、僕がこの番組にどおいう思いで関わってきたかについて触れておこう。一言で言うと宮沢賢治の思想というか考え方が根底になっている。「生きとし生けるもの全てが平等」というのが彼の考え方である。「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という宮沢賢治の言葉が僕の戦争にたいする考え方として“ガンダム”に反映させようと思ったのだ。戦争が起きる理由はさまざまある。しかし、実際に起きてしまいそれに巻き込まれてしまった以上、ただ黙って見ているだけでは済まされない。話し合いで和平にこぎつけられれば最高の理想だが、それが通らない以上戦うしか道はない。目には目を、歯には歯を、振りかかった火の粉は払わなければならないと昔から言う。軍人の父を持つアムロも、自ら進んで戦争を起こしたのではなくいわば巻き込まれたのだ。一つの宿命と言えばいえる。そうした状況下で、いつの時代からか忘れられた真の優しさ、温かさ、思いやり、力強さを表現したかったのである。