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 “ガンダム”など撲の作品をここまで回顧してきて、僕はふとあることに気がついた。“科学”の問題である。例えフィクションの世界であるとは言え“ガンダム”が“SF”を謳っている以上、アニメーションと言えども“科学考証”に裏付けされなければならない。それなのに僕は学生の頃から“科学、化学”共に苦手というか、興味が無かったのである。学習に必要な最低限の知識程度は学んだが、天文学、宇宙学まで広がる深い造詣など全くと言っていいほど持ち合わせていなかった。その僕が“ガンダム”のシナリオを書き続けてきたなんて“無責任な奴”と思われるかもしれない。でも実はそうとも言いきれないのが“シナリオ”なのである。それは全てを“文字”で表現しなければならない“小説”と違い、“映像”で表現するのが“シナリオ”だからである。

 もちろん、“ガンダム”の作業に入る前にその舞台設定、世界観、各種のメカ機能について資料説明は数回に渡る打ち合わせで聞かされたし、資料は新しいものが作られるたびに渡された。だから“ガンダム”の世界を構成する三大要素が“スペース・コロニー、ミノフスキー粒子、モビル・スーツ”であること、ホワイトベースやガンダム以下主なメカの目的や機能についても説明は受けていた。特にスペース・コロニー(宇宙植民島)はNHK教育テレビや雑誌の特集記事などで、具体性を持つ計画として実際に発表されていたから、リアリティーのある存在として視聴者に受け入れられたと思う。僕の言いたいことはそれらをどこまで忠実に細かく、詳しく書き込めるかということだ。

 これは、アニメーションでも実写でも日常生活を舞台にしたものではなく、闘いなどのアクションを多用するシナリオに限っての“無責任さ”とでも言えばいいのかもしれない。“ガンダム”はまさにそれに相当すると言えるだろう。東映動画で僕が参加したシリーズ番組“トランスフォーマー”もその一つだ。どちらもそうだが回数が進むにつれて登場するメカが増えていく。特にクリスマスや正月商戦の前頃になるとスポンサーの出す新製品のメカが続々登場し、それらを全て話の中に組み込まなければならない。その性能や機能を細かく表現していたら、シナリオの量はおそらく倍以上になるかもしれない。だから“人物”の描写に重点を置き、悪い表現だがメカやアクションの書き込みは手抜きになるわけだ。

 これには他にも理由がある。小説と異なり映画やドラマには時間の制限があるということと、画的効果が要求されるということだ。ガンダムとザクの闘い、ホワイトベースの移動や戦闘シーンなどなど、開始
と結果についての必要最少描写だけで、あとは演出のコンテに任せるという書き方です。これが時代劇の殺陣や刑事もののアクションになると更に短い書き込みになる。その為に専門の殺陣師や格闘指導師が居るのだから。あるベテランの脚本家で“立ち回りよろしく”“アクションよろしく”としか書いてないという有名な話があるくらい。実写の場合はロケの都合などから何処でそのシーンを撮るか分からないため、特に指定の必要な場所以外、シナリオには例えばある河原、とか林の中とか位しか書きません。

 これが小説の場合だと作家により差はあるが、有る程度詳しく書き込まれることになる。例えば“玉前神社の境内で2人の剣客、やくざ者が一松と対峙した。間合いは一間半。愛甲派示現流を遣うには間合いが短か過ぎた。一松は木刀を振り上げつつ、石畳に片膝を突いた。(中略)片膝を突いたことで低くなり、多勢ということもあって用心棒達の間に優越の気持ちが生じた。一松は四尺五寸の木刀を頭上に突き上げ、腹に力を溜めた。剣客の一人が正眼の剣を胸元に引き上げ、もう一人が突きの構えから一松の喉を狙った。(佐伯泰秀著“秘剣孤座”より)。映像表現と違い、文章で読者にイメージさせる小説だからである。