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 またひとつ、業界の訃報に接した(22日東京新聞朝刊)。ベテランのアニメーション監督石黒昇氏(20日死去、73歳)だ。テレビシリーズ“宇宙戦艦ヤマト”、劇場用映画“超時空要塞マクロス”、ビデオ作品“メガゾーン23”、同“銀河英雄伝説”などの演出を手がけ、多くのファンに支えられていた。僕が石黒氏の作品に参加したのはロボットもののテレビシリーズ。サンライズ社のプロデューサー鶴見君の紹介だったが、僕が他にも仕事を抱えていたこともあり、わずか三本しかご一緒できなかった。初対面の時その大きな体に威圧されたものの、感覚的にウマが合い、優しい笑顔が印象に残っている。当時目蒲線(現在の田園都市線)の鵜ノ木に住んでいた石黒氏は“鵜ノ木の巨匠”の愛称で精力的に活動していた。ご冥福を祈るとともに、アニメ、実写を問わず往年活躍した業界人が一人また一人と欠けていき、まさに世代交代の時代を実感する。

 「原作を映画やドラマにした場合、面白くないものが多いのは何故?」。いろいろな所でよく聞かれる質問だ。一言で答えるのは難しいが、あえて言うなら“表現の形が違うから”と言えるだろう。原作(小説)は人物の心理や情景、風景全て文字、文章で表現するのに対し、映画やドラマでは映像で表現しなければならない。ただしこの質問は実写の場合が多く、アニメーションに関してはほとんどない。何故か?実写の場合の原作が文章であるのに対して、アニメーションの場合の原作がマンガや劇画など“画”で表現されたものがほとんどだから。中には小説を題材にしたものもあるが、映像化される場合の表現方法は俳優が演じるのではなく、全て“画”であるところに違いがある。そこに“人の思い込み、固定観念”というものが働くからだ。

 僕は映画、テレビ映画を通じて原作のあるものをそのまま素材にしてシナリオ化したのは“疑惑の構図”(夏樹静子)、“華やかな死体”(佐賀潜)の二本しかない。いずれも短編の推理小説だった。それでもシナリオ化するにあたって苦戦した。一つは時間に制限があること。一つは原作の時代設定で描かれた“トリック”をそのまま使用するのに無理があったことだ。時間の問題というのはストーリー展開である。短編とはいえ綿密に組まれたストーリーがある。それをそのまま正直に踏襲するには一時間枠では不可能だった。そこで原作のテーマを忠実に活かしながらアレンジする“脚色”という作業をしなければならないのだ。映像による表現化である。トリックについては現代で通用するものに切り替えた記憶がある。

 ほかにも“遠山の金さん”とか“河内山宗俊”など原作のある作品を手がけたが、それらは主人公や登場人物を活かしただけで、一本一本のストーリーは全て脚本家達のオリジナルである。それでも僕の中に“思い込みや固定観念”があり、正直苦労した。それらの作品を初めて演じた俳優のイメージが、僕の作業を邪魔したからである。そこで最初の「原作のあるものの映画化はつまらない」と言う質問に戻ると、答えは、多くの場合“観る者の思い込みや固定観念の影響にある”と言うことが言える。

 原作(小説)を読む時読者は原作の世界を自由に想像、イメージを描きながら読む。主人公やヒロインを自分の好きな俳優をイメージしながら読んだり、描かれている背景、風景も自分の故郷や旅先で気に入っている場所を自由に想定している。ところが、実際に映画化された作品は俳優も風景も固定されてしまうのだ。それらが観る者のイメージとピッタリなら安心するが、そうでない場合は不満に繋がる。まして人物の心理描写は文章なら素直に伝わるが、俳優の表情をアップで写しても正確に伝わるかどうか微妙だ。こうした無意識の意識が、表現方法の違いに現れることになる。「原作を読んでから映画を観るより、映画を観てから原作を読め」と言われる所以だ。これに対してアニメーションの場合ほとんど違和感を覚えないのは、人物のキャラクターも舞台設定も原作そのものが“画”で描かれているからだ。小説を題材にした場合でも好き嫌いのある俳優が演じるのではなく、“画”による表現だから違和感を感じないことになる。“ひみつのアッコちゃん”“ルパン三世”“エースをねらえ”“サザエさん”など、いずれもストーリーは脚本家のオリジナルに関わらずキャラクターが原作そのままだから、違和感なく観られるのだ。