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 人の思い込みと言うか固定観念というか、一度脳に焼き付けられたイメージにはかなり強いものがある。自然の風景、動植物の姿、どれも最初に見たときの印象が最も強いと言えるだろう。映画やテレビも同じである。古い話になるが例えば僕が初めて観た東映映画〝遠山の金さん〟の主演は片岡千恵蔵、同〝旗本退屈男〟の主之介は市川右太衞門、大映の“銭形平次”は長谷川一夫、新東宝の“鞍馬天狗”は嵐寛寿郎などなど、他にも数えあげれば切りが無い。これらの作品はその後も主演者を替えて映画、テレビで次々製作されたが、僕の中での“主演像”は生まれて初めて観た俳優のイメージが確固たる位置を占めている。今でもだ。二作目以降の俳優の演技の是非を言っているのではない。人物像が固定されている、と言うことである。そしてそれは僕がシナリオライターになってから現実の問題として立ちふさがった。

 僕が自分の固定観念に悩まされた初めての作品は“遠山の金さん”(NE丁、現在のテレビ朝日製作)だった。それも、主役の違う二回のシリーズに参加したのだ。一回目のシリーズで金さんを演じたのは中村梅之助(前進座)、二回目は橋幸夫である。一回目は先輩ライターの押川国秋氏の紹介によるものだが、氏も片岡千恵蔵の固定イメージが強かったらしく(中村氏には申し訳なかったが、演技力の問題ではないので)、内心困惑していたようだ。とは言え全てを承知の上で参加した以上、シナリオ作業は責任を持って仕上げなければならない。幸いと言っては不謹慎になるが、これは勧善懲悪ものでストーリー構成にはパターンが決まっている。その意味では不安は無かった。問題は金さんの人物像だった。結果、でき上がった金さんはセリフ回しから行動、ラストのお白州での七五調の啖呵まで、僕の中での片岡千恵蔵像そのものになっていた。しかし、完成した映像の中では千恵蔵ではなく中村梅之助の金さんとして生き生きと演技しているのを見せられ、流石だなと思う一方、ホッとしたのを覚えている。二回目のシリーズ、橋幸夫の場合も同じだった。

 “思い込み”については、形こそ違うがアニメーションの作品でも遭遇した。いやむしろアニメーションの方が自分でも意外な出来事だったと言える。作品は“ザ・ウルトラマン”(サンライズ社製作)と“ワンダービート・S”(虫プロ製作)である。“ウルトラマン”のプロデューサーは“ガンダム”の作業に入る前に“スターウォーズ”を台湾に一緒に観に行った鶴見氏だった。昔よく観ていた“ウルトラマン”だけに気合いも入ってシナリオの作業に入った。しかも、製作費に制限のある特撮の実写と違ってアニメーション。作画による表現だからどんなシーンでも自由自在に描けるのだ。ところが、シナリオの決定稿が出来、撮影も終わって試写を観終えた時、僕は奇妙な違和感に包まれた。一言で言うなら何か拍子抜けしたような、妙な脱力感みたいなものに襲われたのだ。迫力に欠けていたと言うことだ。セリフ、効果音、画の動きが悪い訳ではない。ストーリー的にも物足りなくはなかった、と思う。それなら何故?・・“思い込み”である。過去に観てきた“特撮による実写”のイメージが、僕の中での“迫力の固定観念”として活きずいていたからだ。そう思ったとたん、二作目のシナリオ作業に影響していた。訳も無く自信を無くし、筆が進まないにだ。何度も書いては書き直しの繰り返しが続いた。しかし引き受けている以上投げ出す訳にはいかない。何とかして気を取り戻すため、僕はシナリオの締め切り日を二日延ばしてもらい、アニメーションと実写の違い、双方の利点を見つけることに努めた。この番組で僕が書かせて貰ったのは第六話・燃える深海への挑戦、第八話・ヒカリ隊員の秘密が盗まれた?、第二十五話・悪魔の花園だった。

 “ワンダービート・S”も同じだ。これは30数年前に観た特撮外国映画“ミクロの決死圏”のアニメ版と言えるもの。銃撃された政府要人の記憶を取り戻すため、ミクロ化した精鋭医師団が要人の体内に潜入して活躍する話である。このズバ抜けた発想と映像美、映画の完成度に受けたショックは今でも新しい。それをこの番組では人の病気の患部に医師団が潜入し、治療すると言う話である。30分枠のアニメーションでどこまで描けるか。不安と疑問と戦いながら、渡された膨大な人体機能の資料と悪戦苦闘しつつそれでも二本書き上げた。第八話・あこがれの上級生、と第八話・雷雨の中の訪問者である。