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 今、僕が書いてきた〝ガンダム〟の作品を振り返りながら一抹の不安、迷いが湧いてきている理由として僕の戦争に対する視点、主張が揺らいでいたのではないかという点に気づかされたからとかいた。初めて対峙する〝戦争〟というテーマに正面から、あらゆる角度から掘り下げようという意気込みで作業を開始した。とはいえ、僕の中の根底には〝戦争否定〟という普遍の主張があったはずである。それが今振り返ってみると、一話ごとにグラついているように思えるのだ。

 例えば〝ククルス・ドアンの島〟である。アムロが子ども達を手先に使うドアンを誤解するところから始まり、やがてドアンが子ども達を守るために死を賭して敵と戦う姿を目の当たりに見て誤解は解けるが、問題はラストでアムロが取った行動である。『ドアンに染みついている戦いの匂いが追跡者を引きつけるのだ』と叫んで、ドアンの乗っていたザクを海中深く沈めてしまう。僕は当時カッコいいセリフで勇気ある行動と決めつけて書いた記憶がある。しかし今考えてみると果たしてあれでよかったのかどうかと揺らぐのだ。ザクを始末しただけで全てが解決するのだろうか。脱走兵のドアンが生きている限り、例え何処に居ても追跡者は探して来るのではないか。だとすればザクを沈めたことが果たして的確な行動だったのかどうか。例え30分という限られた短い枠だったにせよ、何かストーリー展開上にご都合主義的で舌足らずを感じてしまうのだ。かといって今考えてどうすればいいのか最善策をすぐには思いつかないが、せめて前後編策を提案して舌足らずだけでも改めるべきではなかったのかとつくずく思うのである。

 もう一つ、乱暴な言い方をすれば〝もしかして自分で気づかないままいい加減な作業をしてきたのではないか‘’、と言う恐ろしい思惑だ。ここで言う〝いい加減〟とは必ずしも〝手を抜いたチャランポラン〟という意味ではないし、〝しったかぶり〟という意味でもない。一言で言うなら〝体験的問題〟とでも言えばいいだろうか。つまり体験したことのない世界を描くということだ。これは〝ガンダム〟に限ったことではない。江戸時代に生きていなかった僕が時代劇を書き、殺人なども経験の無い僕が事件ものを描く。そして〝ガンダム〟の場合は戦争体験など僕には全く無いのだから。なのにそれらを平然?と描く。もちろんそれぞれに関連した必要な資料、書物は可能な限り調べ、読む。取材もする。江戸時代の社会機構、人々の生活はどうだったのか。何故犯罪を犯し、法的処罰はどうなるかなど、調べることは可能である。そして何よりも根底になっていることは〝人間を描く〟ことにある。時代の変化に伴う人の価値観、ライフスタイルは変わるかもしれないが、人間の〝喜怒哀楽〟の情に変わりはない。だからさまざまなドラマを生み出すことが出来るのである。

 しかし、僕にとって〝ガンダム〟だけは大きく異なっていた。未経験の世界の中でも〝戦争〟というとてつもなく深く大きな舞台だったからだ。例え未経験でも資料や取材によってその時代、その世界に自分を置くことはできるが、戦争という世界は全く想像もしていなかった異質の世界に僕を放りだしたのだ。いつ何処で何が起きるか分からないし、どんな対象と直面するかも分からない。それらは〝ガンダム〟の話数が進むにつれ、僕を引きずり込んで行ったように思う。今から振り返ると、僕は何時からか冷静さを無くしていったようにも思えるのだ。

 時の流れは人の心を、ものの考え方を変えていくものなのかもしれない。昔から『亀の甲より年の功』という言葉がある。長い間に身につけた豊富な経験や知恵は、やはり優れていて尊重すべきという意味である。確かに頷ける点はあるが、僕の考え方は少し違う。このままだと若い時の考え方が青臭く間違っていて、歳を取ってからの考え方の方が正しく深いということになるが、僕はそう単純に決めつけたくはないのである。僕はこのコラム執筆という機会に恵まれ、書き進めてきた今、改めて〝亀の甲〟を考え直している。〝ガンダム〟を振り返っての迷い、揺らぎは確かに生じているが、一方で〝いやあの当時は精一杯に向き合い、それなりに正しかったのでは無いか〟、逆に、今では思いつかない新鮮さがあったのではないか、とも思えるのである。