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 僕は今までアニメーションを主体に刑事ドラマ、時代劇、シリアスドラマなど、賞を貰えるような芸術作品は残していないがいろいろな多くの作品を書いてきた。その中でも一番インパクトが強く、心に焼き付いているのが〝ガンダム〟である。番組が終了してから30数年経った今も騒がれ、話題になり、ブームのごとき存在になっているからではない。一言で言えば、戦争体験の無い僕が〝戦争〟をテーマにして書いた唯一の作品だからだ。小説でも映画でも戦争をテーマにした作品は数多く発表されている。僕もその中のいくつかは読んだり観たりしてきた。しかしその僕が戦争をテーマにシナリオを書く立場になったのは、後にも先にも〝ガンダム〟が唯一だったのだ。
 日本に限らず世界中至る所で戦争はくり返されてきたし、今も深刻な状況は続いている。日本も過去にさまざまな戦争を体験してきた。僕は子どもの頃『国と国は何故戦争をするのか』『人は何故死を覚悟して戦場に行くのか』わからなかった。映画の中では『お国のため、天皇陛下のために死んでいく』と叫んでいた。そして日本国民全体がそう教育されてきたと聞かされ、なおさら理解することが出来なかった。それから10数年、僕が雑誌の編集記者をしていた頃、太平洋戦争にかり出された若い兵士達の手記について取材する機会に遭遇し、中味を読んで驚いた。彼らの本音は、『国のため、天皇陛下のために死ぬ』のではなく、親を思い、兄弟を思い、恋人を思う痛いほどの叫びが書かれていたからだ。この時から、僕の戦争に対する考え方は決まったと言える。例えいかなる理由があるにせよ、戦争は〝否定する〟と。僕はそうした立場で〝ガンダム〟と対峙したのである。

 そして、番組終了後30数年経った今、このコラム執筆を通して改めて〝ガンダム〟を振り返り、掘り起こしているわけだ。もちろん、30数年の間ガンダムのことを全く忘れていた訳ではなく、折に触れいろいろな形で話題にもなり、ガンダムについていろいろ質問されたことも数多くある。思わぬ人たちとの新しい出会いにも恵まれ、そうしたことがこのコラムの執筆にも繋がったと言える。しかし、僕が書いてきた〝ガンダム〟のシナリオ一本一本について改めて引っ張り出し、いろいろな角度から掘り下げて考察する立場に立たされたのは、このコラム執筆が初めてである。そして、回を重ねるにつれある種の不安と言うか、迷いが生じてきていることも事実と言える。

 それは、一言で言うなら〝ガンダム〟執筆まで抱いていた僕の〝戦争観〟が、シナリオの作業が進むにつれどこか揺らぎ、薄れていったのではないかということである。もちろん作業進行当時はそんなことに気がつかなかったのか、考えもしなかった。任された一話ごとに真剣に対峙してきた。けしていい加減な気持ちで向かい合ってきた訳ではない、と思っていた。しかし今振り返ってみると、その点が気になりだしてきたのだ。このコラムで振り返る僕の担当したガンダム作品はまだ二本残っているが、それについてはまたこのコラムの先の回に触れるとして、今つき当たっている僕の中の〝迷い〟について整理しておきたいと思う。それは、作中人物の〝死〟の問題である。戦争が起こる背景にはさまざまな理由、条件がある。しかしいかなる理由があるにせよ、必ず犠牲が伴うのが戦争であり、故に僕は戦争を否定する立場にあった。その僕が〝ガンダム〟の中で何人かの犠牲を出し、また救うことすらできない回もあった。リュウ・ホセの死を防げず、イセリナの死を見守るだけだった。言い換えれば主人公のアムロがその場の置かれた立場でいかに行動すべきかという状況にのみ振り回される描き方で、ライターとしての僕の主張が描かれていなかったのではないか。僕自身が、戦場という状況の中で自分を見失い、死という犠牲を仕方ない事と決めつけてきたように思えたのだ。考えの甘さか、力の無さか、乱暴な言い方をすれば『いい加減に作業してきた』のか、とさえ思えるのである。