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 〝ガンダム〟の作業が続いてるある時、僕は手塚プロとの出会いがあり、〝鉄腕アトム〟の脚本を書くことになった。サンライズ社のオリジナル新作〝科学冒険隊タンサー・5〟のチーフライターも抱えて忙しい時期だったが、鉄腕アトムは30分枠1話完結の作品だったし、ライター陣も多くいたことから可能な時間帯に作業が出来ると思って引き受けることにした。しかし、これが意外な効果を生むことになったことを覚えている。〝タンサー・5〟はロボットものではなかったし勧善懲悪がテーマではない。〝ガンダム〟もロボットものではあるが勧善懲悪がテーマではない。これに対して〝鉄腕アトム〟はモロに勧善懲悪である。この対照的作品の交互作業が思わぬ効果に繋がったことになる。一言で言えば〝鉄腕アトム〟が僕にとってスカッとする清涼飲料剤になったということか。
 〝ガンダム〟は勧善懲悪でないばかりか、多くのさまざまな正確のキャラクターが登場する。しかも〝死〟と向き合う戦争という状況の中で、それぞれのキャラクター達が出会い、別れ、人の命を、人の怒りを、人の悲しみを容赦なく破壊する。また〝タンサー・5〟は毎回世界の不思議・怪奇現象、謎を探索する、シリーズとして脈絡の無い作品だ。それに較べて勧善懲悪がテーマの〝鉄腕アトム〟はストーリー作りにパターンがある。

 例えば、最後に印籠を見せて悪を懲らしめる〝水戸黄門〟や、町の風来坊が実は町奉行で最後に桜吹雪の入れ墨を晒して悪を裁く〝遠山の金さん〟などと全く同じパターンなのだ。人は、日本人に限らず世界中どこでも〝勧善懲悪〟をテーマにした作品を好み、手を変え品を変え排出されてきた。インディアン(原住民)を悪とした西部劇、ギャングを倒す暗黒街もの等数えあげればきりが無い。そして悪が倒された時、滅びた時観る者は安堵し溜飲を下げるのだ。日頃の、日常の鬱積した思いを吹き飛ばすことが出来るからであろう。この〝溜飲〟を下げてくれた飲料剤が〝鉄腕アト
ム〟だったのかもしれない。

 〝鉄腕アトム〟では〝アトムVSアトラス2〟〝アトラス復活〟ほか2、3本書いたと思うが、これがその後の〝ガンダム〟のシナリオ作業への絶好の刺激になったのだ。それは〝勧善懲悪〟をテーマにした作品ばかりを2,3本同時進行させていた時とは違う刺激だった。相反する作品だからこそ生まれた相乗効果だったと言えよう。

 正直な気持ち〝ガンダム〟のシナリオ作業はそれまでに無かった自分が生じたと言える。正義が悪を倒す時は、書いている僕も爽快感というか何か優越感というものを抱く。ロボットものでも時代劇でも同じだ。キャラクターこそ違っても正義は正義であり、悪は悪として懲らしめられる立場だから。勧善懲悪でない作品〝ひみつのアッコちゃん〟や〝
コメットさん〟なども多く書いてきたが、いずれもキャラクター達の生活の場は日常である。一方〝ガンダム〟は〝戦場〟そのものなのだ。少年アムロが敵の戦艦と直面し、ガルマと対峙し、シャアの攻撃を直かに受ける。気がつくと僕自身がいきなり戦場に放りだされ、決断を迫られているような思いだった。それは正直、戦争の是非を冷静に考えられる立場になかったように思いだされる。

 〝ガンダム〟の作業に入る前までは僕なりの戦争観、戦争に対する考え方はあった。それは戦争を頭から悪と決めつけることも、逆に正しい必要悪と決めつけることも難しいと言う事だった。食料戦争、宗教戦争、領土戦争など、やむにやまれぬ状況から戦争に至る道がさまざまだからだ。ただ一つはっきり言えることは、どんな形にしろ必ず犠牲は伴うということ。しかし、〝ガンダム〟の作業に入り、回数が進むにつれそうした客観的な考え方が薄らいでいき、いつか目先の状況に対応するだけの、狭い心情になっていたといえるだろう。アムロをはじめそれぞれの人物達が眼前の状況に何を考え、どう行動すればいいのかだけに限られてしまっていたのではないかということだ。そして30数年経った今、コラムという形で再会し改めて向き合うことになった。