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 七月十二日(火)の朝のことである。いつもと変わりなくコーヒーを飲みながら新聞を見ていた僕は、一瞬目を疑った。一番下の欄に、よく知っている名前を見たからだ。世の中には同姓同名の人は何人か居る。僕はバカみたいに何度も目を凝らして読み返した。間違えない。正真正銘その人だった。“田中秀夫氏(たなか・ひでお=映画監督)9日、胃がんのため死去、78歳。”と書かれていた。死亡広告である。そして“葬儀・告別式は近親者で済ませた。喪主は妻和佳子(わかこ)さん”と続いていた。
 僕が田中監督と出会ったのは30数年前。当時のNEТ(現在のテレビ朝日)の人気番組“特別機動捜査隊”(青木義朗主演)の仕事だった。東映製作の刑事もので、八○○回以上続いた長寿番組である。それだけにライター陣の数も多く、延べ20人近くは居たと思う。僕が一本目に書いた脚本は“黒い血”。酒を飲むと暴力を振るう父と男癖の悪い母。そんな両親との血縁を恨んで家を飛び出し犯罪に手を染め、あげくの果て殺人まで犯してしまう青年の話で、田中監督が気を入れて撮ってくれた。同番組のカラーを破り、予算をオーバーして撮影された、パトカーと青年のバイクとのカーアクションによるクライマックス・シーンは今でも印象深く思い起こされる。

 同番組と、その後番組である刑事もの“特捜最前線”(二谷英明主演)を僕は何本か書かせて貰ったが、中でも思い出の深い作品が一本ある。僕が書いたものではなく年輩のベテラン脚本家が書いた“特別機動捜査隊”の一本だ。その準備稿(決定稿にするための打ち合わせ用台本で、ナマ原稿を仮印刷したもの)を手にした田中監督が、「これではどうしても撮れないんだ」と、僕に直しを頼んできたのである。それも二日で仕上げて欲しいと言う。僕は躊躇した。時間のなさはなく、大先輩の脚本を僕ごとき若造が手を加えることにである。

 あとで知ったことだが、同番組のプロデューサー中井義氏は、背中に青竜刀(戦争当時の中国で使われた大刀)の傷跡があるといわれる熱血漢で、仕事の減った年輩の友人ライターの面倒をみている親分肌、人情の厚い人物でもあったのだ。今回の直しの件はそうした中の一本だったらしい。話は全て了解済みだから自由に直して欲しいと田中監督から言われ、僕は引き受けることにした。正直、作業は予想以上に困難だった。別人の書いたテーマをできる限り形を崩さず、僕の書きたいテーマとドッキングさせなければならない。僕は初日の作業から徹夜になった。

 当時、結婚して二年目くらいだった僕は新宿成子坂近くの狭いアパートに住んでいた。翌日の午後、奥さんの運転する車で田中監督が僕のアパートを訪ねてきた。作業は三分の二程できあがっていた。そこまでを読んだ田中監督は少し安心したような表情で頷いた(僕が勝手にそう思ったのかもしれない)。それから、僕が一枚書き上げるごとに監督が手に取り、目を通していく。僕は作業を続けながらも、始めての経験に内心の不安も隠せなかった。「よし、いける」。監督が満足そうに奥さんに頷いたのは、午後七時を過ぎていた。翌日、完成した作品を手に監督と一緒に茅ケ崎にある中井プロデューサー宅に向かい、OKを貰った時、僕は始めて今迄にない快感を味わったのを覚えている。

 田中監督は故山本嘉次朗監督に師事した人で“スケバン刑事”(東映)など刑事、アクションものを得意にしているが、それから二年後、思わぬ仕事を僕に依頼してきた。シナノ企画が製作するビデオ作品“日本昔話”シリーズの総監督を任されたので、その脚本を僕に頼みたいと言うのだ。日本昔話といえば、良い事をすれば報われ、悪い事をした者は罰せられるという勧善懲悪を子供達に諭す話として知られているが、この企画はそうした今迄の解釈を越えた、全く新感覚の作品に仕上げたいという意向だった。僕は興味を持ち“花咲か爺さん”、“こぶ取り爺さん”など何本かの作品を題材に、監督とさまざまな角度から素材を練りはじめたのだが、なぜか明確な理由も明かされないまま、この企画自体が流れてしまった。シナリオと撮影の関わりなど、さまざまな事を教えてくれた田中監督の訃報に接し、複雑気持ちで思い出を辿るとともに、心からご冥福をお祈り申しあげます。