meijido_logo2b.png

title_column_araki.png

0030

 ファースト・ガンダム(F・G)が放映されてから三十数年経つ今も、ファンは増えていると聞く。しかも、当時のガンダム世代から現在の若者までと年齢層も幅が広いという。脚本を担当したシナリオ・ライターとして凄く嬉しく、光栄だと思っている。僕は今、いろいろな場所で「F・Gのファン」だという人達と出会う機会に多く恵まれ、その度に大いに話がはずむのだが、彼らのほとんどが、僕の書いた作品の中でも“ククルス・ドアンの島”が特に好きですと言ってくれる。何故なのだろうか。僕なりにその理由を考えてみた。

 “戦争”を題材にした作品は、現在こそ少ないが、過去にはかなり沢山あった。小説、映画、ドラマなどジャンルを越えてである。特に、邦画はもちろん洋画となると枚挙にいとまがないと言っても過言ではないほどの数が製作された。“荒鷲の要塞”“ナバロンの要塞”など難攻不落の要塞を攻めるもの。“大脱走”“戦場からの脱出”といった大量の捕虜を救出する話。アメリカ映画では原住民(インディアン)と騎兵隊の戦いや黒人と白人の民族戦争も多く描かれた。そして太平洋戦争やベトナム戦争などの近代戦争実話を題材にしたものまで、僕も多くの作品を観てきた。そしてそのどれもが“戦争とは何か”についてさまざまな意見、問題を提起してきた。そしてそれらを観てきた多くの経験が、僕の“ガンダム”製作に向かう心構えの土台になっている。

 今なお“ガンダム”を支持するファンが多いことの第一の理由が“勧善懲悪”でない“ロボットもの”を生みだしたパイオニア的作品だからである。敵は敵、悪者だと頭から決めつけていないからこそ、人間味、リアリティーを描くことに成功したといえよう。それが連邦側にもジオン側にもさまざまな意見、価値観を持った多くの人物を登場させる作業にもなったのである。

 改めて“ククルス・ドアンの島”の魅力を考えてみると、この回の主人公ドアンのいきざまにあるのではないだろうか。戦火の中で子供たちの親を死なせてしまったことへの自責の念からジオン軍を脱送、人生を変えた男という設定である。しかも、一人年上の少女ロランを除いて、子供たちにはその真実を打ち明けていない。いや、残酷すぎて打ち明けられないのだ。ずるさで隠しているのではなく、本音に背いてひたすら隠し通さなければならないことの方がどれほど自分を傷つけるか。その気持ちこそが、子供たちを守るためには命を投げ出せるドアンの選択に繋がったといえよう。

 戦争は人を変える、とよく言われる。おとなしく思いやりのあった人間でも、死を目前にした恐怖から逃れるために残酷な人間に豹変する。また、当たり前とまでは言わないまでも、死ぬか生きるかの戦いなのだから相手を殺すのは許される、仕方がないといった殺人への麻痺感。そうした行為は、戦士達の間だけに留まらない。昔「勝てば官軍」という言葉が横行したが、勝利の高揚心が人間の理性を奪い、度の過ぎた、無謀な侵略行為に発展してしまうのだ。戦う必要が無いのに何の罪も無い市民を巻き込んで、強奪、殺人とエスカレートしてしまう。これは、過去の多くの戦争の歴史の中で、紛れも無い事実として記録されている。

 戦争は人を変える。それは、人間が自らの抑制心を失うほど弱い動物であることの証かもしれない。戦争に限らず、日常での多くの犯罪の要因であるともいえる。そうした中で、理性を支えに人生を変えたククルス・ドアンこそ、真に強い人間として描きたっかた。強く、男らしい人間になりたいと願うのは僕だけではないはずだ。ドアンの生き様に
魅力を感じる理由もそこにある。そして、主人公アムロを人間として成長させるためにも、彼の人生の中で出会わせたかった男がククルス・ドアンである。