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 僕が四本目に担当した“ガンダム”は第十五話、“ククルス・ドアンの島”である。ジオン軍と連邦軍の戦争に巻き込まれて親を失った子供たちを守るために命を賭ける男ククルス・ドアンとアムロの話で、僕が書いたシナリオの中でも好きな作品である。ククルス・ドアンはアムロにとって最初で最後の、初めて会うタイプの大人だったと言える。

 連邦空軍の緊急信号が入るが、自動発信のため交信がきかず、ガンダムとコアファイターの着脱訓練をしていたアムロが調査に向かう。探り当てた洋上の孤島には、武器だけを奪われ、操縦席に縛りつけられた虫の息の連邦軍兵士の姿があった。兵士を助け出そうとしたアムロは、突然子供たちの石礫攻撃に見舞われる。「出て行け、ドアンの島からすぐ出ていけ!」。アムロは、子供たちの背後に現れたククルス・ドアンに敵意を抱く。「子供たちを丸め込んで手先に使う悪い奴」と戦いを挑むが、ドアンのザクの前に刃が立たず負傷してしまう。

 夕方、アムロが病床で目を覚ますと、夕日が室内を真っ赤に染めていた。「きれいな夕日でしょう」。看病していた少女ロランがアムロの回復に笑顔で声を掛けるが、アムロはこたえない。「夕日の美しさも分からないの」「戦いに美しさなど必要ない。気を許せば負けるんだ」とドアンのことをなじるアムロ。「何も知らないくせに勝手に決めつけないで」。ロランはドアンを庇うが、アムロは信じないばかりか敵意を剥き出し、子供たちとの間も更に険悪となり、武器となるコアファイターを何処かに隠されてしまう。「絶対見つけて取り戻してやる」向きになって探すアムロだが、事態は急変する。島を見つけたジオンのザクが攻撃してきたのだ。子供たちを守るためドアンは丸腰のザクで抗戦するが、敵ザクの武器の前に苦戦を強いられる。見かねたロランがコアファイターの隠し場所をアムロに教え、アムロが水を得た魚の如くジオンのザクに敢然と突進、みごと勝利する。

 アムロに助けられたドアンには秘密があった。実はドアンは元ジオン軍の兵士で、子供たちの親を死に追いやった張本人だったのだ。その事を悔い、罪の重さと戦争のむなしさを痛感したドアンは、ジオン軍を脱走、子供たちとこの島に隠れ住んでいたのだ。「俺がいる限りジオン兵は執拗に攻めてくる。子供たちを守り抜くために、俺は最後まで戦い続ける」「あなたが抗戦する限り戦いは終わらない。あなたの体に染みついている戦いの匂いが敵を引きつけるんだ」。アムロは言い切り、到着していたホワイトベースのガンダムとドッキングするやいなや、いきなりドアンのザクを頭上高く持ち上げ海中に投げ捨てた。ドアンも子供たちも唖然と驚くが、やがてドアンはゆっくり頷き「あいつ、青臭いところがとれたらきっといい大人(戦士)になれる」と、ロランに呟くのだった。

 “いい大人”の反対語は“悪い大人”かと言うと、そう単純なことではない。善と悪を一言で言い切れないのと同様、いい大人にも無限の解釈があると思う。そしてそれは年齢によっても考え方が変わるだろう。例えば、僕が20代の頃に思っていた“いい大人”というのは、“人に迷惑を掛けず、思いやりがあって優しく、仕事のできる人”といったイメージがあったように思う。でもガンダムを書いていた頃は違い、“多くの人生経験を身につけ、事を判断するにあたってさまざまな角度から考え、相手の心情をより深く理解し、一つの結論を出すのではなく総合的に、可能性の高い方向を見いだせる人”というように変わっていた。それは今も僕の中で根本的な考えとなっている。

 “ククルス・ドアンの島”は戦争とは何か、戦いとは何かについて、多くの提示が考えられる中から“むなしさ、無意味さ”を体験した男ククルス・ドアン、彼と関わりを持ったことから同じ思いを知らされた主人公アムロの話である。それは勿論、僕の戦争に対する一つの考え方の反映でもある。僕には戦争に参加した経験は無い。しかし日本が体験した太平洋戦争、ベトナム戦争など文字や映像では耳目に得ているし、それらについて僕なりに考えることは多くあった。僕が兵士の立場だったら、その国の指導者の立場だったら、その国の一市民だったらと。人間の欲、身勝手、独裁者の権力誇示。戦争が起きる原因はいろいろある。時には真から生活を守るため、民族の存続を守るためのやむなき理由もあるだろう。

 僕が昔雑誌の記者をしていた頃、太平洋戦争で若くして死んでいった特攻隊員達の残した日記を読んだことがある。また、当時の若者達は、国のため天皇陛下のために命を落とすことが当たり前、誇りだと教え込まれていた、洗脳されていた。と、生還した実際の軍人から直接話を聞かされたこともある。正直、その経験の無い僕には理解できなかった。その上で特攻隊員達の日記を読んだのだが、そこには当時の教育とは違う、隊員達の本音、生の声が書かれていた。友を気遣い、恋人を思い、家族を案じ、死を恐れ、戦争の空しさを訴える悲痛な叫びがつずられていた。国の指導者でもなく軍の幹部でもない、末端の一兵士達の真の声である。そしてそれは、作品を一つ書く度に僕の伝えたい事、訴えたい事、理解を求めたい事として作品に反映されていく。“ガンダム”もしかりで、“ククルス・ドアンの島”はまさに末端の一兵士の悲痛な叫びなのである。余談になるがこの回の演出斧谷稔は、総監督富野喜幸氏のペンネームである。