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僕が担当した“ガンダム“三本目の脚本は第十一話“イセリナ、恋のあと”、ジオン国王の末息子ガルマの死後直後の回だった。言うまでも無く“ガンダム”は“戦争”を舞台にしたドラマである。そこには人々の欲望、怒り、悲しみ、憎しみといったさまざまな感情が渦巻いている。そして何が正しく、何が間違いなのかも一口では言い切れない。

 この頃には、地球連邦政府に独立戦争を挑んだジオン公国(宇宙都市サイド3)との戦況も激化し、この戦いでジオンと連邦は総人口の半分を死に至らしめ、人々はその自らの行為に恐怖を覚えていた。そこまでして何故戦わなければならないのか。戦争が人々に何をもたらすのかーーー。

 同じジオン公国の人間でありながら、末弟のガルマの死に直面したドズルザビ、ギレンザビの二人の兄、ザビ国王の思いはそれぞれ異なっている。「ガルマの死を我が王家だけで悼むのが何故いけない」と愛する息子の死を断腸の思いで悲しむ王に対し、「父上、今は戦時下、国民の戦意の高揚をより確かにするためにも国を挙げての国葬こそ最もふさわしい」と死を戦に利用しようと図るギレンザビ。それに同意した上で更に「ガルマを守りきれなかったシャーの処分を」と父に迫る姉。一方ドズルザビは「葬儀のことよりガルマの為にせめて一矢報いたい」と怒り剥き出しに父を煽る。

 この四人の気持ちはそれぞれの人生観から出た本音であり、誰が正しく誰が間違っているという単純なものではない。戦争という過激な状況が、時として判断の冷静さを欠き、人の心を惑わすことにもなることを、僕は書きたかった。そして、こうした思惑から少しはずれた所で戦っているのがシャーだった。実は、まだ表に出して描けない話数だが、シャーの本心がジオン勝利のために戦っているのではないという設定がされているのだ。それは今後ストーリーが進むにつれて明らかにされていくが、彼が時として不可解にも思える行動をとるのもそのためなのである。

 その一つの例がこの回でのシャーの戦闘シーンにある。操縦系統に故障が生じた木馬(ホワイトベース)が不時着をよぎなくされた上、連邦軍からの援軍も無理と判断されたことからアムロがガンダムで出撃する。そしてシャーの率いるジオン勢と戦う中、苦戦を感じたシャーは「私のモビルスーツは電気系統が壊れて使えなかったことにしてくれ」と部下に言い置き、一人退却してしまうのだ。必死に相手に挑む姿勢とはいえないだろう。

 戦争という状況下では、落とさなくてもいい命を自ら落とすという悲劇も稀では無い。それも、強行参戦などによる犠牲などではなく一個人として自ら選ぶ死への道なのだ。それを僕はイセリナの行動を通して描きたかった。誰よりもガルマを慕っていたイセリナにとって、ガルマの死は悲しみ以上の苦しみに違いない。戦争が無ければガルマは死ななかったのだ。ガルマを死に追い込んだ敵のモビルスーツが憎い、許せない。イセリナは女の身ながら
報復に燃え、止めるのも振り切り単身出撃する。シャーが退却した直後のことである。

 イセリナの眼前に立ちはだかったのはガンダムだった。だが、戦闘機の一翼をガンダムに破壊され、落下寸前のイセリナは果敢にもガンダムに体当たりをかけ、ガンダムを故障させた。墜落して半壊した戦闘機から最後の力を振り絞って這い出したイセリナ。アムロも故障したガンダムから姿を現した。「憎い仇、覚悟」と、イセリナがアムロに銃口を向ける。「仇ーーー僕のことを仇と言ったーーー」アムロは唖然と呟いてイセリナを見つめる。瞬間銃声が轟き、倒れたのはイセリナだった。憎い仇を撃ったのではなく、自らが命を落としたのだ。その行動は、愛するガルマの下に自ら追いすがることを望んだからである。

 目の前で、初めて自分を「仇」と呼ばれた主人公アムロの心中こそ、戦争とは何かに対する僕の中での問い掛けであり、複雑な思いでイセリナの亡き骸を埋葬するアムロの姿が、その答えの一つなのである。