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 この頃、恩師直居先生は、東京放映という劇団の幹部にも席を置いていた。かなり大所帯の劇団で、年に数回の公演を行っていたし、後にテレビなどで活躍する俳優の卵達も何人か頑張っていた。その中の出世頭といえるのが、今や時代劇の大物俳優といえる“マツケン”こと松平健だろう。

 当時は名も無き一劇団員にすぎなかったが、ひときわ目立つ顔立ちと、ガッシリと大きな体格、僕が見ても確かにスターになれる風格を備えていた。この、当時まだ若かった松平健に目をつけたのが直居先生で、ある日勝プロのオーナー勝新太郎に紹介することになった。「うム、これは近ごろまれに見る逸材だ。俺が責任を持ってスターに仕立ててやる」。直居先生に紹介を受けた勝新太郎は、松平健をひとめ見るなりそう太鼓判を押した。ちなみに直居先生と勝新太郎は長い付き合いで、映画“座頭市”シリーズの第一作“座頭市物語”の脚本も執筆している。

 それからわずか二ヶ月余り、勝新太郎の言葉通り松平健はスター街道への第一歩を踏み出すことになる。それが初めての連続テレビ映画、太平洋戦争を題材にした“人間の条件”(森村誠一原作)の主役だった。しかし、結果は期待されたほど視聴率も出ず、惨敗に終わって終い、その後しばらく松平健はなりをひそめることに。だが、そのまま埋もれてしまわなかった松平健は、さすが勝新太郎が「まれに見る逸材」と断言しただけの人物だったといえよう。

 僕に直接関係のない話しを書いたように思われるかもしれないが、実は、直居先生が松平健を紹介した時、僕の事も勝つプロに紹介してくれたのだ。とは言っても、スターの風格のある人材を紹介するのとシナリオの世界は全く違う。一方が目で見てその価値を判断できるのに対して、脚本の場合は書かせてみないと判断ができないからだ。

 確かに“ひみつのアッコちゃん”から“ガンダム”(二作目)までシナリオを書いてはきたものの、実写の経験はまだまだ浅いその頃の僕だった。現に紹介された時「アニメのライターですか」とプロデューサーから改めて聞かれたのを覚えている。それでも直居先生の紹介ということで、当時勝プロが製作していた連続テレビ時代劇映画“狼無頼控”を書かせてもらえることになった。

 数日後、僕が持参した三本のプロット(二百字詰原稿用紙四〜五枚ていどのあらすじ)の中から一本が選ばれ、さっそくシナリオの作業にとりかかった。正直、四苦八苦しながら、それでもやっと書き上げてプロデューサーに見せたところ、「面白くないな」と一蹴され大幅な直しを出されてしまった。それから直す作業を繰り返すこと何と七回。僕は回を重ねるごとに次第に自信を無くし、もう投げ出したいくらいにまでおいこまれた。それでも歯を食いしばり、八回目の直し原稿を提出した時のプロデューサーの言葉に僕は唖然となってしまった。「初稿が一番面白かったかな」である。結果は、第一小稿を直したものが決定稿となり採用されることになった。

 あとで分かったことだが、プロデューサーは直居先生の顔を立てて僕に書かせたものの、内心本気採用するつもりは無く、先生には「彼、一生懸命直して頑張ってるよ」と話していたらしい。でも最後は根負けしたのか、本気で直しの意見を出し、採用することにしたのだった。

 余談になるが、この時もうひとつ驚く出会いがあった。それは、村野武範らに混じってこのシリーズに僕の高校時代の同窓生なべおさみ(本名渡辺修)がレギュラー出演していたことだ。はなはじめの付き人から役者になっていたことは知っていたが、これも一つの縁といえるだろう。人は一人では生きられない、と誰もがいう。仕事でも人生でも、人との出会いが大切であることはいうまでもない。だが、多くの場合人は出会った人、紹介された相手に期待しすぎて依存するケースが多いのではないだろうか。僕の場合でも、えてして紹介されたプロデューサーに全ての期待を託しかけ、失敗した時の責任を相手のせいにしたことも正直あった。そうではなく、自分自身が根気よく、粘り強く最後まで努力し、対応することが良い結果に繋がるのではないかと実感した経験だった。