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 このコラムを書き始めてからアッと言う間に20回が過ぎた。ひとつの節目を迎えたという思いから、「僕の人生にとってシナリオとは何だったのか」について考え直しながら、作品との接点を振り返っていくことにする。と言っても、一本一本作品を書くたびにそのことを意識する訳ではないが、イデオロギーとまで言わないまでも、僕のポリシーと言うか善悪観、親子観、恋愛観等を含めた人生観というものは作品に反映される。それらはライターによって個人差はあるが、ドラマの根底となり、シナリオの土台となることは間違えない。

 “ガンダム”がSFの世界を背景にしていることは言うまでもないが、戦争を題材にしたドラマでもある。とすれば、作業を進める上で“戦争”に対する意見、考え方が根底にもなる。僕には軍隊としての戦争体験は無い。でも、敗戦直後の貧しい現実社会の中で生きてきたから、正否は別として僕なりの判断、考え方はもっていた。それをさらに深めることになったのは、恩師直居先生との出会いだった。

 直居先生は戦争体験者である。それも0戦といわれた特攻隊員で、出撃間際に日本が敗戦を迎えたことで九死に一生を得て帰国した人である。そして、残りの人生をシナリオに託そうと決めたのだそうだ。ちなみに先生の処女作は松竹映画製作の“雲流れる果てに”(鶴田浩二主演)である。その先生が僕をよく映画鑑賞に連れて行ってくれた。観るのは全て戦争映画(洋画)で、先生自身の凄まじい戦争体験談もよく話してくれた。

 ある時僕は、「二度と戦争など体験したくない」と言う先生が何故戦争映画を、それも洋画ばかり観るのか聞いてみた。「邦画の戦争映画は対戦国を悪者、敵とみなす作り方だし、日本だけを被害者とした暗い作りのものが殆ど。洋画には人生観、国家状況など俯瞰で考察した深みがあり、いろいろ考えさせられることが多いから」というのが、先生の答えだった。このことは、その後の僕の“戦争”に対する考え方に大きく影響したといえよう。

 確かに、多くの犠牲者をだす悲惨な戦争というものを肯定することはできない。しかし、戦争に追い込まれた国と国を、単純に“敵”とか“味方”、“善”とか“悪”に分けて決めつけることもできないのではないか。それぞれに価値観があり、守るべきものがあり、主張があるということだ。つまり、“勧善懲悪”で簡単にかたずけられない多くの課題が、そこには含まれているということだ。それが僕の“ガンダム”への投影である。

 “ガンダム”の僕の二本目の作品は第七話“コアファイター脱出せよ”だった。スペースコロニーを離れたホワイトベースが主舞台のストーリー展開である。久しぶりに地球に向かうことを知った宇宙移民の老人達は、戦争下であることも忘れ、故郷への着陸を切望する。しかし、ジオン軍のガルマ部隊とシャーの攻撃が懸念される状況下、ブライトの決断が下されないまま老人達はストライキに突入する。軍と移民達の間で心を痛めるセイラ、フラウボウ。戦争を背景に立場の違う人と人との心の葛藤を描き込めるのも、“ガンダム”の魅力だ。

 一方、軍に足を突っ込みながらも平然と自己ペースのカイシデンは、ブライトから作業を命令されても「無理、疲れたよ」と平気顔。そして、今迄陸戦中心できたガンダムを、シャーのザクを空中戦で迎え撃つことに初挑戦するアムロ。戦わなければならない厳しい現実と、それ以前にナマの人間であるということの落差。この対比を、僕は二本目である第七話からできる限り描きこんでいきたいと思い始めたのだった。