meijido_logo2b.png

title_column_araki.png

0017

 “機動戦士ガンダム”での僕の一本めの脚本は、故星山博之君の第一話山本優君の第二話に続く第三話。といっても「この続きは来週お楽しみに」という完全な続き形式ではなく、エピソードとしては一話ごとに解決して進んでいく。各話のサブタイトルはライターが自分で決めるが、前後の話との関わりやインパクトの問題から、放映用では変えられることもある(多分CD富野氏の役目だと思う)。結果第三話のサブタイトルは“敵の補給艦を叩け”になった。おそらく、このコラムを開かれる皆さんの多くは作品をご覧になっておられると思うので、内容、ストーリーについては改めて語らないことにする。

 この第三話を皮切りにこのシリーズの脚本を書いていくにあたり、正直僕には一抹の不安があった。それは“SFの世界に僕がいかに溶け込んでいけるか”だった。僕は正直なところそれまでSF小説というものを読んだことは一度もなかった。でも、映画やテレビドラマでは少なからず多くのSF作品を観ていたので、多少なりとも知識の下敷きにはなっただろうと思う。中でも外国のテレビ映画“スタートレック”のシリーズは大好きで、映画化された劇場作品もそのつど観てきた。そのことが第三話の執筆に即役立ったかどうかは別にしてここで言いたいのは、面白楽しく傍観者的に映画を観ている一観客としての僕ではなく、製作する側、書く側としてSFの世界に入り込み構築していけるかどうかという不安だった。そこで僕は、改めて自分に問題を提示した。1つはいわゆる“ロボットもの”と呼ばれる作品に対するイメージを根底から変えようということ。それまでのロボットは“鉄人28号”にしろ“鉄腕アトム”にしろ正義の味方で勧善懲悪のヒーローだった。それが“ガンダム”ではモビルスーツと名付け、人が、それも始めは戦争体験すら無い少年(アムロ達)が乗り込んで操縦、相手(敵?)と戦うのだから。つまり善悪、白黒を単純に決めつけるのでなく、それぞれの人間性を描くということ。

 2つめは、“SFの世界と現実生活の舞台上での融合がどこまでスムーズに描けるか”という課題だった(僕の意識の中で)。これら三つの問題点は第三話の執筆に入る前、第一回めの全体会議で企画書を読んだ時、僕の頭の中で回り始めたことである。げんに、今でこそ宇宙ステーションという単語は聞きなれているが、30年以上も前に“スペースコロニー”での生活がどんなものなのか、少なくとも僕には想像しにくかったし、SF世界での用語、知識と、僕たちの日常のライフワークをドッキングさせることが出来るかどうか正直不安があったことは確かだった。このことは、後に“ガンダム”のファンだという人達から「その生活感がドラマのリアルさを構築していて、今までに無いロボットもの」と絶賛された要因の1つになっていることも確かなようだ。

 この2つの提示については第三話“敵の補給艦を叩け”の中で、いろいろな形で表現していると思う。いくつか例を挙げてみよう。1つはルナ2に向かうホワイトベースの中でフラウボーがアムロにいうセリフ、「アムロ、食べるものと着るもの持って来たからここに置いとくね。着替えないと臭いんだもん」。また、ブライトがルナ2に逃げる者と敵に撃って出るものを多数決で決めようとするシーン。更に、ガンダムに乗り込むアムロが「カタパルト、わかるわね?」と聞かれ、「その積もりです。やってみます」と答えるなど、主人公としてはカッコ悪すぎではないかと。

 また、「ブリッジに補給する段取りは分かるな」と言われたハヤトが、マニュアルのノートを見て考えるシーン。セイラから速度を非難されたカイシデンが「うっせいな、こちとら走らせんのがやっとなんだ」と愚痴り、「モビルスーツの性能の違いが力の違いでないことを教えてやる」とシャーに攻撃され、アムロのガンダムが苦戦するシーンなど、可能な限り描き込んだし、以降の話数でも大いに活かしていきたいと思った。